「地方裁判所における民事訴訟事件(第1審)の審理状況」という、裁判所が公開している資料がある。
このデータによると、地方裁判所において、第1審は約5万件の判決が下されている。
しかし、この5万件のうち、1万9千件は被告が裁判を放棄した欠席裁判であり、被告が争った対席裁判の判決は3万1千件となる。
一方で、和解は実に3万8千件もある。
何と、対席裁判の判決数を上回っているのだ。
実は、裁判を行うまでにこじれた話がこれほど多く和解で終わるのには、裁判所側の事情がある。
この事情を、元裁判官が「絶望の裁判所」という本で語っているので紹介したい。
P3~4 はしがき ー 絶望の裁判所
裁判所、裁判官という言葉から、あなたは、どんなイメージを思い浮かべるだろうか?
ごく普通の一 般市民であれば、おそらく、少し冷たいけれども公正、中立、廉直、優秀な裁判官、杓子定規で融通はきかないとしても、誠実で、筋は通すし、出世などにはこだわらない人々を考え、また、そのような裁判官によって行われる裁判についても、同様 に、やや市民感覚とずれるところはあるにしても、おおむね正しく、信頼できるものであると考えているのではないだろうか?
しかし、残念ながら、おそらく、日本の裁判所と裁判官の実態は、そのようなものではない。
前記のような国民、市民の期待に大筋応えられる裁判官は、今日ではむしろ少数派、マイノリティーとなっており、また、その割合も、少しずつ減少しつつあるからだ。
そして、そのような少数派、良識派の裁判官が裁判所組織の上層部に昇ってイニシアテイヴを発揮する可能性も、皆無に等しい。
裁判所の利用者の視点に立って、少し具体的に想像してみよう。
あなたが理不尽な紛争に巻き込まれ、やむをえず裁判所に訴えて正義を実現してもらおうと考えたとしよう。
裁判所に行くと、何が始まるだろうか?
おそらく、ある程度審理が進んだところで、あなたは、裁判官から、強く、被告との「 和解」を勧められるだろう。
和解に応じないと不利な判決を受けるかもしれないとか、 裁判に勝っても相手から金銭を取り立てることは難しく、したがって勝訴判決をもらっても意味はないとかいった説明、説得を、相手方もいない密室で、延々と受けるだろう。
また、裁判官が相手方にどんな説明をしているか、相手方が裁判官にどんなことを言っているか、もしかしたらあなたのいない場所であなたを中傷しているかもしれないのだが、それはあなたにはわからない。
あなたは不安になる。そして、「私は裁判所に理非の決着をつけてもらいにきたのに、なぜこんな『 和解』の説得を何度も何度もされなければならないのだろうか? まるで判決を求めるのが悪いことであるかのように言われるなんて心外だ」という素朴な疑間が、あなたの心にわき上がる。
P133~137 和解の強要、押しつけ
和解の強要、押し付けも、日本の民事裁判に特徴的な大きな問題である。
日本の裁判所における和解は、当事者が交互に裁判官と面接し、また、かなりの期日を重ねることが多いが、これは決して国際標準ではない。
アメリカを始めとして多くの国では、和解は必ず当事者双方対席で行われるし、裁判官が長時間かけて当事者を説得するなどといったこともない。
裁判官が当事者の一方ずつと和解の話をすること自体が重大な手続保障違背である。
つまり、手続上の問題があるとする考え方が普通である。
相手方はその内容を全く知りえないからである。
日本では、近年、裁判迅速化の要請を背景に、和解礼賛の考え方が学者の間にさえ強まっているが、ここには大きな落とし穴がある。
前記のとおり、日本の裁判官には、重要な法律問題や新しい法律問題を含む事件において判決、ことに新しい判断を示すことに対する及び腰の姿勢が強く、しかも、この傾向は近年むしろ強まっているからだ。
効率よく事件を「落とす」ことだけを至上目的とする、事なかれ主義の事件処理が目立つようになっている。
弁護士から「裁判官による和解の 強要、押し付けの横行」をいう声を聴くことも多い。
一方、弁護士の側にも、敗訴のリスクや強制執行困難のリスクを恐れ、また、裁判官同様和解で処理できる事件は和解で早期に処理してしまいたいという動機が働きうることも手伝って、当事者が必ずしも望んでおらず、納得もしていない和解を勧める傾向がないとはいえない。
しかし、訴訟上の和解が本質的には「当事者間の」契約、「当事者の」訴訟行為であるのは民事訴訟法理論のイロハであり、たとえばアメリカでは、「当事者の意向に沿わない和解は絶対に行ってはならない」ことが、弁護士倫理の基本中の基本とされている。
訴訟が好きな国民などいないが、ことに、日本人には比較的争い事を好まない人々が多い( 元裁判官の法学者である私だって、降りかかった人の粉は仕方がないから払うが、できれば争い事は避けたいと思っている)から、よほどのことがない限り訴訟という手段には訴えない。
逆にいえば、平均的な日本人が訴訟を起こすことを決断する場合には、どうしても裁判所に理非の判断を付けてもらいたい、そして最後まで戦いたいという場合が比較的多いはずである。
ところが、訴訟を起こしてみると、はしがきに記したとおり、ある程度審理が進んだ段階で、裁判官から、強引に、かつ延々と和解の説得を受ける場合がきわめて多いのである。
だから、あなたが裁判所で和解に臨む際には、日本の裁判官の前記のような傾向をよく認識しておく必要がある。
すぐれた裁判官であれば、的確に自己の心証とその根拠を説明し、和解の成立にはこだわらず、その時間や回数にも節度を守る。
もしもそれと異なる言動を示す裁判官ならば要注意である。
弁護士についても同様のことがいえるが、裁判官の場合以上にその誠実さは見極めにくい場合が多いだろう。
委任する前に弁護士の説明をよく聴き、その資質と人柄を冷静に把握し、信頼できる弁護士を選択していく必要がある。
このように裁判官が和解に固執するのには二つの理由がある。
一つは要するに早く事件を「処理」したい、終わらせたいからである。
裁判官の事件処理については毎月統計が取られており、新受件数が既済件数を上回り、いわゆる未済事件が増加すれば「赤字」となって「事件処理能力」が問われるし、手持ち件数も増えるから みずからの手元、訴訟運営も苦しくなってくる。
また、司法制度改革に伴い二〇〇三年に 成立した裁判の迅速化に関する法律の第二条によって第一審の訴訟手続は二年以内のできるだけ短い期間内に終局させるべきものとされていて、これがガイドラインとなっていることもあり、裁判官は、ともかく早く事件を終わらせることばかりを念頭に置いて仕事をする傾向が強まっているのである。
確かに、裁判に長い時間がかかるのは好ましいことではなく、迅速も重要である。
しかし、裁判で何よりも重要なのは疑いもなく「適正」であり、ただ早いだけの裁判は、赤子ごどとたらいの水を捨てるようなものである。
にもかかわらず、日本の裁判官は、この原則を忘れがちになり、ともかく安直に早く事件を処理できて件数をかせげる和解に走ろうとする傾向が強いのである。
もう一つの理由は、判決を書きたくないからである。
これには、前記のとおり、困難な判断を行うことを回避したいという場合もあるが、それはまだいいほうで、単に、判決を書くのが面倒である、そのために訴訟記録をていねいに読み直すのも面倒である、また、判決を書けばそれがうるさい所長や高裁の裁判長によって評価され、場合により失点にもつながるので、そのような事態を避けたいなどの、より卑近な動機に基づく場合のほうが 一般的である(なお、ことに高裁の評価については、客観的とは限らないという問題もあるが)。
後に 述べるように最近は新受件数が減少しているにもかかわらず、和解の強要、押し付け傾向が改善されないのは、こうした事情による。